僥倖
「やっぱ、訳わからん」
『やっぱ』という言葉の前に『先輩』という主語が出てこなかったのは、昇にとって僥倖だ。
「……それで、貴方はどうしてここにいるの」
間を置いて問い掛けられたからか、昇はその質問の意味が噛み砕けていないようだ。玲於奈と正面から向き合ったまま顔に大きなクエスチョンマークを数秒浮かべて、
「ああ、なるほど。いや、俺は朝の散歩がてら司影の様子を見に行こうかと思っただけですよ。昨日、あいつ風邪っぽかったみたいなんで」
納得したように得心し、真っ赤な嘘を平然とついた。司影の様子を見に行こうと思っていたのは本当だが。
昇が回答してから数秒後、
「……そう」
抑揚を欠いた返答。
「……なら、私もご一緒させてもらうわ」
一拍遅れた問い掛けで、空白が生まれた。
「はい?」
「……楠木さんの家に、私もご一緒させて頂く、と言ったの」
玲於奈を見つめる昇の顔は滑稽だ。ぶたが空を飛んでいるのを目撃したかのように固まっている。
ひょっとしたら彼の思考も、ぶたと一緒に彼方へと飛んでしまったのかもしれない。